最勝院仁王像
修復完成の経緯
1. 最勝院仁王像の大まかな歴史
現在の最勝院仁王像は、元々は大円寺の仁王像として造立されたものです。これまで、この仁王像には外側から見て、経緯・歴史のわかる情報は一切ありませんでした。今からおよそ300年程前の元禄年間の文献でさえも『不詳』とあり、「いつ・誰が・何のために」造ったのかはわからなかったのです。
ですから、作者・経緯・歴史のはっきりしないご仏像だったこともあり、あまり重要視されては来ませんでしたし、重要文化財の指定なども一切受けてはおりませんでした。しかし、此所(ここ)弘前という歴史ある町と、そこに住まいする人々を、只管(ひたすら)に見守り、見守られてきたご仏像であることは間違いありません。
2. 目玉がポロリ
平成29年(西暦二〇一七)秋の早朝、参拝者のお一人が『仁王様の目玉が落ちている!』と息をせききってお寺に知らせに来ました。仁王門に行ってみると、向かって右側「阿形像」の左目が無くなっており、眼窩(がんか)がポッカリと穴が空いたように見えています。門の中に入り、薄暗い内部をよく見ますと足元の床には、これまで収まっていたとみられる眼球がコロリと転がっておりました。まるで眼球は、上の仁王様を驚いて見上げているように見え、この仁王様とは全く別のモノのように感じたのが印象的でした。この眼球は肉厚のガラスで造られてあるようで、黒目の部分などは縁取りがなされて描かれてはおりますが繊細さに欠け、如何にも素人臭さの匂うような出来にも見受けられました。
それにしても、眼球を失い、虚ろな眼窩となった阿形像は、まるで『あ~、痛くてたまらん!何とかしてくれ』と大声で叫んで訴えている様にも見えてしまいました。
その後、仁王像の壊れた箇所の詳細がどうなっているのかを調べてみました。まず、床に転がっておりました眼球を、眼窩にあてがってみますと、スッポリと程よく入りますので阿形像の左目の眼球であることは、まず間違いなさそうです。現代のパテのような補修材を充填(じゅうてん)して固定していたらしく、恐らく経年劣化により伸縮が繰り返されるうちに押さえが効かなくなり、眼球が剥落するようにしてポロリと落下したと考えられます。台座を含めて3メートルの高さから落下しても欠けも割れもせず原形をとどめたところを見ますと、よほど丈夫なガラスなのでしょう。
同じ像の右目も確認してみましたが、眼球と眼窩の隙間を充填しているパテ様のものも、最早ユルユルで今にも眼球が落ちそうな状態である事がわかりました。
同様に、仁王門正面に向かって左側の「吽形像」の眼球も同様に緩んでいるのは一目瞭然で、かろうじて眼窩にしがみついている状態でした。しかも、本来収まっているべき位置が大きくずれて、視線が左右に離れて別々の方向を見ているようにも見え、威厳さに欠ける相貌となってしまっておりました。
結論として、経年変化も相まって、後から補修した全ての目が維持できなくなり、その内の一つの眼球が落下したと考えられます。
3. 仁王様はお寺の顔
その後、役員会、総代会、護持会理事会におきまして現状の報告がなされ、2躰(たい)の仁王像をどのように扱うべきかが話し合われました。一致した意見としては、仁王像はいわばお寺の顔とも言える、参拝者が境内に入る時には真っ先に目にするお像ですから、放置せずに早々に修理するのが望ましいという、大変に有り難いご意見で一致しました。具体的には、まずは専門家に見て頂き、見積もりあわせを行い、依頼する業者選定を行うのが宜しかろうということです。業者に関しましては、以前に五重塔本尊の彩色を担当頂いたり、如意輪観音の制作を依頼したことのある滋賀県の渡邊勢山(わたなべ せいざん)仏師と、弘前大学名誉教授の須藤弘敏(すとう ひろとし)先生からご紹介頂いた東京都世田谷区の工房・明古堂(めいこどう)の明珍素也(みょうちん もとや)氏に見積もりを依頼しました。その結果、明古堂に「目の修理」をお願いすることとなりました。
4. 奇想天外な搬出方法
仁王像が納められている仁王門は搬出することを前提には建てられてはいませんので、引き出すまでが大仕事でした。当初、仁王像を仁王門より引き出す方法は、正面から引き出す、という案が有力でした。しかし、この方法ですとスペース確保のために、どうしても建物を壊さなければ引き出し不可能な案でもあったのです。それは、仁王門の金剛柵を切り取る、正面の横柱ごと切り取り壊す、ということなどです。これらは、後戻りできない構造的なマイナス面を仁王門に与える案といえました。そのような中で、他の案も模索されました。
仁王門の設計・施工者であった、大室勝男(おおむろ かつお)氏は、仁王門のうしろから引き出す方法を提案しました。最初、現場担当者ら一同は、その発想に大変驚きました。しかし、この方法の説明を聞くほどに、仁王像にも仁王門にも最も負担をかけずに仁王像を仁王門から引き出す最善の方法であるように思えてきたのです。具体的には、仁王像のうしろの板壁を復帰可能なように、壊さぬように取り外し、まるで陸上の背面跳(はいめんとび)のような格好で仁王像を引き出す、というものでした。そして、全くもって奇想天外(きそうてんがい)なこの方法が採択されたのです。
令和元年(二〇一九)10月1日朝、安全祈願法要後に正面向かって右側の眼球の落下した阿形像から引き出しは開始されました。仁王門うしろ側の開け放った窓から10人ほどが、少しずつ少しずつ、まるで蝸牛(かたつむり)のように遅くゆっくりと引き出しが行われました。
更に作業は進み、仁王門から引き出されました仁王像は、特別に組み合わせて作られた大きな戸板のような担架に仰向けに乗せられました。そして、絶対に落下することなどがないように、作業の方々に仁王像は取り囲まれるようにして、搬送用の特別トラックへ静々と運び込まれました。トラックは動き出し、これから数年はかかるであろう東京世田谷・明古堂での修理のための長旅に出立しました。翌10月2日には吽形像が同様に出立して行かれました。
5. トラブル発生
仁王門からの仁王像搬出作業第2日目、吽形像の搬出作業中にトラブルが発生します。細心の注意を払いつつ行われていた作業でしたが、右足が膝上あたりから外れたのです。更にその2日後、工房への搬入時に阿形像の右肩の接合部分が大きく弛み、外れかかっていると明古堂より連絡が入りました。全体の調査では、寄木の矧目(はぎめ)という接合部の膠(にかわ)が全く機能しておらず、頼みの大釘・鎹(かすがい)の殆どが緩んでいるとのことです。今後、全身の特に弱いところから次々と弛み始め、脱落して行く可能性が高いことが報告されました。これは、仁王像の搬出・搬入の業者の扱いが手荒く、悪かったということではありませんし、造立当初の仏師の造りが悪かったということでもありません。これらは全て、経年変化によるものとのことでした。接合部の糊や釘が効かなくなっていることで、仁王像自身の重さでさえも支えきれなくなりつつあるようです。つまり、仁王像の経年変化による老朽化は、予想以上に進行していたということです。そして、全体が崩壊しはじめる、その始まりとして阿形像の左眼球が落下したと考えられるのです。
仁王像の躯(からだ)全体がこのままでは維持できないわけですから、当初に予定されていた目だけの修理は現実的ではないことが明らかとなりました。仏像の文化財修理ではこの状況は「解体修理」が一般的な方法となることも告げられました。
このように「解体修理」を行うか否かの判断を迫られた訳ですが、それは今後最も大きな問題となる、費用の激変につながってゆくこととなります。
6. 巨額の改修費用 新たな仏像製作、交換か
「跳ね上がる費用」・「檀家さんへの募金追加の難しさ」・「コロナ災禍による人流の低下による観光収入激減」。これらのことはお寺にとっては大問題となり、住職にとっては心理的に大きな重圧となりました。
「解体修理」の見積もりは折しも、当初の目だけの修理として檀家さん方からの寄進勧募がほぼ終わろうか、という時期に最勝院へ示されました。早々に寄付を済ませた檀家さん方は、みな非常に協力的で、全体の約九割以上がお願いをした分の全額を納め終わっている状況下です。「檀家さんへの募金追加の難しさ」を感じたのは、寄付が終わってホッとする間もなく矢継ぎ早に次の寄付の依頼が来れば、ウンザリするのは誰しも同じだろうと思われたからなのです。何よりも、事業主体者として予算案設定が甘いとのそしりを受けることは必定でした。
そのように辛い状況下、新型コロナ災禍の暗い影がジワリと日本全国に浸潤(しんじゅん)しはじめました。これは、最勝院にとりましてまさに泣きっ面に蜂となりました。人流が止まるとともに、頼みの観光収入が絶え、それが平常に戻るのかどうかも見通せない中、必要な資金の財源を、一体どこに求めれば良いのかが見えませんでした。先行きが真っ暗すぎ、手探りさえも覚束(おぼつか)ないようなものでしたし、その不安は筆舌に尽くせぬものでした。想像を超えた金額の大きさから、いっそこの修理はやめてお金のかからないように新たな仁王像を造ってしまっても良いのではないか、などということも選択肢の一つとしてありました。一旦楽な方向に考えが向き始めますと、なかなか軌道修正は難しいものでした。
7. 住職の苦悩
その後、拙衲(せつのう=わたくし)は、最勝院の歴代住職の末席に座す者として、今、どのように為すべきなのかを深く考えてみました。
阿形仁王像は、近年、無理矢理に刳(く)り抜かれた上、杜撰(ずさん)に扱われた自からの左眼を落として見せたのだと思います。吽形仁王像は、外れてしまった左足の痛さを堪えるかのように必死の形相で歯を食いしばりながら、今何をすべきなのかを寡黙にして雄弁に語りかけてきます。
これらは、「解体修理」の時機到来を告げる仁王像からの大いなるメッセージ、と捉えることとしました。恐らく300年以上という星霜を過ごしてきたであろう阿吽の相を呈する仁王像の歴史は、数え切れないほどの人々に手を合わされ続けてきたということであり、同時に、ここ弘前という街を数百年間に亘り見守り続けてきたということです。この歴史は、お金に換算することができない、実に価値あることではないのか、との思いに至ります。更に、もしも新たなご仏像を安価・安易に造成したとしても、時が経てば必ずまた修理をしなければならない時が来る、ということであり、今般の歴史ある仁王像を自ら手放すようなことは絶対にあってはならない、と強く思いました。
今、このような仁王像からの強いメッセージに反応しないようであれば、最勝院の住職として失格ではないか、という思いが沸々と湧き上がって参りました。それが、拙衲から仁王像への返答でした。長く長くこの地にその身を置き続け、解体修理の時機到来を眼球を落とし、足を切り落とされるかのように失い〝お前に私を治す事ができようか?〟と問うてきた仁王像への返答であり、それは自問自答を繰り返してきた、拙衲自身への最終的な返答でもありました。
8. しのび寄るコロナ災禍
令和元年(二〇一九)12月頃から、ニュースに「新型コロナウィルス」という聞き慣れない言葉が見聞されるようになり、その感染はまるで爆発するかのように瞬く間に全世界を覆い尽くしました。日本も例外なく感染者が急増し、ここ弘前では令和2年(二〇二〇)年4月の「さくらまつり」では主会場である「弘前公園」が閉鎖となりました。最勝院でも弘前市に歩調を合わせてお寺の門を閉めるなど、対応せざるを得ませんでした。門を閉めるということは、観光・参拝者が零ということです。参拝者がないということは拝観料・おさいせん・おまもり・ご集印などの授与品などの収入も零ということです。
この新型コロナ災禍は、最勝院仁王像修復に関しまして、金銭面だけでなく、様々に影響を及ぼしました。例えば、彩色復元時の色確認など、明古堂に直接赴かなければならない時などは、今考えてみても冷や汗ものでした。大混雑する公共機関は感染リスクが高いと思われ、その回避のためレンタカーで首都圏を走り抜けることを選択したのです。しかし、都会の首都高速・立体交差・地下道などは、運転慣れしていない田舎者には、かなりハードルの高いものでしたし、日程的にも強行軍を強いられる場面が幾度もありました。
9. 全身の解体
寄木造(よせぎづくり)の仁王像は、多くの材から組み立てられています。修復は、数百年前に制作された時と、逆の工程で行われますので、まずは取り外し・解体が行われました。接合部分が弛んでいるとはいえ、古(いにしえ)の仏師が丹精込めて造り、時々に修理が加えられてきた仁王像です。取り外し、引き剥がす時に接合部分をできるだけ壊さないように細心の注意を払いながらの作業といえるでしょう。
解体が終わり、それらを並べてみますと、大小実に多様なパーツで仁王像が構成されている事がわかります。胴体を中心とした、頭部・手・足など、人が大きく動かすことのできる、可動部ごとのパーツによって造られているように感じました。
10. 寄木固定の主役 糊剤・膠(にかわ)大釘・鎹(かすがい)
上腕部や脚部など特に大きなパーツを繋(つな)ぎ止めているものの一つが、鎹(かすがい)という大釘です。表面から打ち込む鉄製の釘ですので、どうしても目立ってしまいます。ですから、上面や裏面など見えづらい箇所が選ばれて、打ち込まれているようにも感じました。鎹(かすがい)は、いくら弛んでいるとはいえ、深く木部に打ち込まれているでしょうから、木部をできるだけ壊さないように引き抜くためには、技術と経験が必要なのではないでしょうか。
糊剤である膠(にかわ)は、茶色い透明感のある干物のように乾いたものです。それを加水・加温して溶かし、トロリとした液状にして使用します。お寺でも様々なところで、ごく普通に使われてきたもののようです。小さい頃、お寺の物置に細い棒状の膠(にかわ)がたくさんあり、このようなもので本当にくっつくのかと、不思議に思ったものでした。
仁王像には、接合部にはふんだんに、この膠が使用されております。古い膠は、不要ですので、全て撤去しなければなりません。下地の木部を傷つけないように根気の要る仕事です。
11. 一体どうする?体表彩色と厄介なヒゲ
体表の彩色は、過去数度にわたり塗り重ねられてきました。特に近年の彩色はその粗悪さから、表面がひび割れて仁王像の雰囲気を大きく損ねているのが修復前の状況です。できうる限りこれら後補(こうほ)の彩色は取り除く、という方向性で関係者一同の一致した意見となりました。合わせまして、お顔の髭(ひげ)についても、その扱いについて確認がなされました。その結果、最勝院仁王像の髭は後補と判断し、取り除く方向で進めることとなりました。
彩色の復元作業には難しい問題がありました。数回にわたり上塗りされた色を剥(は)ぎ取り続けて行くわけですが、どの時点でその作業を止めるのか、という問題です。この作業が行き過ぎますと、後戻りできず取り返しがつきません。慎重の上にも慎重を期して、行わねばならない作業なのです。
或る日、明古堂より
「彩色復元の作業が、最終段階を迎えました、ご確認下さい」
との連絡が入りました。
上に塗られたベンガラなど補彩(ほさい)、つまり後から塗られた彩色をできうる限り剥ぎ取り、掻(か)き落とす、という作業が延々と続けられておりました。ですから、明珍氏からの連絡は、仁王像の肌の最下層・最深部に残る、制作当初の色に到達したと思われる、と理解させて頂きました。
剥ぎ取り作業を現段階で止めて良いかどうかは、最高責任者である、住職自らが判断をしてくれ、ということになるのです。
12. 甦った古の眼差し
目の復元は目の縁から大きく眼窩を刳り抜かれていることから、一体どのような目に復元されるのかというところは、最も気に掛かるところではありました。しかし、明古堂に全てを委ね一切をお任せすることと致しました。
仁王像の玉眼(ぎょくがん)が嵌(は)め込まれた時点で、すぐにお顔のみの写真をお送り頂く手はずとなっておりましたので、それこそ鶴のように首を長くして、一日千秋の思いで待ち続けました。
目はご仏像の雰囲気を決める大切な部分です。当院仁王像の目の復元に関しまして明古堂では、
「目の修復は、思い入れや、希望などは一切排除して、僅かに残された痕跡だけを基に復元しました」
とのことでした。
拙衲は、仁王像のお顔は修復前とは全く違った品格あるものとなったのではないか、と感じ入りました。逆に、経験も配慮もない修理は、元々の姿形を全く違ったものに変貌させてしまう危険性を孕んだ行為といわねばなりません。
13. 魂の納め場所 胎内銘札はどこへ打ちつけるのか?
新たに胎内に奉納されたものの一つに、「銘札(めいさつ)」があります。この銘札は青森ヒバ製の板札で、建物の小屋裏などに納められる棟札と形はよく似ています。しかし、広々とした屋根裏とは違いご仏像の胎内は隙間といって良いほど狭いので、必然的に小さな板札となります。しかし、大工さんが大きく立派な板札を持ってきましたので、胎内のどこにお納めするのかに苦心することとなりました。
仁王像の胴体は前と後の部分に割れた構造で、それを繋いで胴体が造られています。仁王像の胎内の空間は、場所によっては手狭なため、新しい大きな銘札であれば、前部分が幾分広めで余裕をもって打ち付けができそうだ、と明古堂より連絡を頂きました。やり取りの中で、仏師は胎内に銘札を残す場合、後々の人が修理のために内部を開けた時に、銘札の表側が見えるように納め留めることが多い、とのことです。ここで、拙衲(わたくし)は異を唱えました。
銘札は、謂わば、ご仏像の魂のようなものなので、たとえ外側からは見えていなくても、参拝者が手を合わせた時に、銘札の裏側を拝むようなかたちは宜しくないのではないか、と思ったのです。仁王像解体修復工事の象徴・魂ともいえる銘札が、日々参拝者に対して正面を向き、且つ、将来において解体して胎内を開いた時に、その銘札が正面を向いた形で見ることができるという、両方の条件をクリアする打ち付け場所は、限られています。
仁王像の銘札を打ち付ける場所、それは胴体の内部内刳(うちぐり)の後部分以外にはなかったのです。
修復現場には、大変ご面倒をおかけすることは分かっておりましたが、詳細に調べて頂きました。その結果、当初の打ち付け予定場所よりも若干下側になるが、可能との回答を得るに至りました。
仁王像胎内に奉納する板札・銘札は、当初は竹釘で固定する予定でした。しかし、銘札の大きさからいって竹釘では長い年月を留(とど)めることは難しいと判断し、他の丈夫な素材の釘に変更しました。具体的には、鍛冶職人が鉄を打ち鍛えて造った鍛造釘(たんぞうくぎ)を特注することになりました。これはいわゆる和釘(わくぎ)のことです。更に、鍛造釘の表面は、漆で覆い錆止めを施しましました。
この新規銘札は、阿吽仁王像それぞれに一枚づつつくられ、最勝院護摩堂での遙拝(ようはい)胎内奉納式を経て、明古堂に渡されました。
14. 運慶か アッと驚く大発見
令和2年(二〇二〇)7月17日、明古堂の明珍素也(めいこどう・みょうちんもとや)氏より最勝院へ吉報がもたらされました。それは、解体途中で胎内より墨書(ぼくしょ)と銘札(めいさつ)が見つかったというものでした。墨書とは、そのご仏像の造立や修理といった、いわば生い立ちや経歴を示すといってもよい「最重要な過去の痕跡」といえるものです。墨書は頭部・お顔の裏側に、銘札は胸のあたり背中側の胴体に打ち付けられていた、ということでした。何よりも驚いたのはその内容です。墨書・銘札とも同じ内容すが、丁寧な楷書で次のように墨書されていました。
承應貳年癸(みずのと)巳(み)六月吉日
七条大仏師流右近作
承応2年は西暦1653年ですから、発見の時点で制作より367年が経過しており、現在国指定重要文化財指定を受けている最勝院五重塔建立の13年前にこの仁王像が制作されていたことがわかりました。しかも、京都七条仏所は、鎌倉時代に活躍した運慶(うんけい)の末裔としてその流れを汲む仏師集団であり、その中の「右近(うこん)」によって制作された仁王像である事を指し示しています。実に、最勝院仁王像は皆がアッと驚くような輝かしい来歴の持ち主だったのです。
この吉報は、地元仏像関連の専門家らをも唸らせました。弘前大学名誉教授の須藤弘敏(すとう ひろとし)先生にでさえも『よもや、このような来歴をお持ちの仁王像であるとは…!』と言わしめます。その理由は、近年の劣悪な修理・補彩が本来の相貌を激変させ、全く違った仁王像にしてしまっていたことに尽きる、といっても過言ではないでしょう。
この最勝院にとっての世紀の大発見は、後々大きな大きな追い風となって行きます。仁王像の工事は単なる「修理」ではなく造立当初の姿に戻す、という「修復・復旧」を目指した工事へと舵を切り、強力に推し進めて行く事となりました。
15. 方針の転換 修理から復元への舵切り
仁王像の単なる目の修理から、全身を解体の上で〝修復〟することへの舵切りが決断されたことで、関係者相計り次のことが確認されました。ここでいう関係者とは、仏像専門家である、弘前大学名誉教授の須藤弘敏(すとう ひろとし)氏。修復を一手に引き受ける、明古堂当主、明珍素也(みょうちん もとや)氏。檀信徒の大願(だいがん)成就(じょうじゅ)を実現するために、全ての責任を負う最勝院住職布施公彰(ふせ こうしょう)の3名です。
ここで確認がなされました修復方針を端的にいえば、この工事は、復元を目的とするというものでした。具体的には、近年までに数回にわたり行われてきた、粗雑な修理・後補痕(こうほあと)は、できるだけ取り除き、造立当初の姿に戻すことを目的とすることが、確認されたのです。
仁王像の目だけを単に修理するのではなく、解体のうえで古(いにしえ)の姿色に戻すことを目指す修復工事となったため、大発見に言寄せる事となるのは大変に申し訳なかったのですが、檀家の皆さんには金額を設定させて頂いた上で、改めて追加の寄進のお願いをすることと致しました。
16. 現代の普請 クラウドファンディング
ある日、地元銀行である青森銀行よりクラウドファンディング(※以下CF)をお勧め頂きました。お寺での伝統的な寄進勧募の方法とは、余りにもかけ離れた方法であっただけに、最初は乗り気にはなれず、難色を示しておりましたが、最終的には受け入れることとしました。その理由として、次の4つが考えられたからです。
一つには、現代はWeb検索に関して、たとえ高齢者でもその操作をこなす方は多くおり、最勝院仁王像の修復工事の現状を検索頂ける可能性があったことです。
二つには、CFはウェブサービスとして確立されており、単にHomePageに掲載するよりも、遙かに検索でヒットさせ得る力を有していると思われました。
三つには、「初もうで」、「ダイエンジのヨミヤ」で最勝院に参拝し、仁王門をくぐったことのある方々が全国には沢山おられます。そういった方々に現状を理解して頂くことができれば、と一縷(いちる)の望みを託しました。
四つには、若い方々にも、最勝院仁王像のような古いご仏像などが、どのようにして次世代に引き継がれて行くのかを、是非知って頂きたいと思いました。
実際のCF稼働までには幾つものハードルがありました。しかし、最勝院仁王像への寄進キャッチコピー『甦れ!厳しくも優しい眼差しよ』は見事にその杞憂(きゆう)を吹き飛ばしてくれました。このインターネットによる寄進は、仁王像修復総予算額に対しても決して小さくはないものとなりました。
このように、Web・Internetという未知の領域のプラスの面だけを垣間見たに過ぎないのでしょうが、限りない力が秘められているのだなぁと、つくづく思いました。
クラウドファンディングによる仁王像寄進に関して興味のある方は「最勝院仁王像」Readyforページをご覧下さい。
最勝院仁王像 Readyforページ
17. 工事安全祈願法要と胎内奉納式
最勝院では、様々な事業を行いますが、必ずといって良いほど事業と共に宗教的に意味のある法要儀式も行われます。
仁王像修復工事においての最初の法要は、令和元年(二〇一九)10月1日、午前八時三〇分から厳修された「工事安全祈願法要」です。仁王門前に設けられた祭壇にて住職が導師を勤めました。祈願法要後に早速仁王像の搬出作業が開始されました。
胎内への品々の奉納も宗教的な儀式として行われました。仁王像の中に納められた胎内奉納物(たいないほうのうぶつ)は、次にこの仁王像が解体修理を受けた時でなければ、誰も目にすることが出来ない事は、これまでの歴史が物語ります。このように、胎内に奉納された品々が未来に向けてのメッセージとなりますので、ご仏像自体はまるでタイムカプセルのように機能することになります。それらを勘案して仁王像の中には次のものを奉安することとしました。
まず、これまで奉納されてきた銘札(めいさつ)及び、裏打ちされた願文(がんもん)などは、胎内に戻します。次に、交換したことで残される4つのガラス眼球、修復で新たに出た木っ端切れ(こっぱぎれ)なども胎内に戻します。
当初は令和4年(二〇二二)2月8日に明古堂へ新たな胎内奉納物を持参し、仁王像を前にして胎内奉納祈願法要を勤修の予定でした。しかし、コロナ災禍の度重なる感染拡大によって、明古堂での法要儀式は中止を余儀なくされました。代わりに、祈願法要を行う場所を最勝院護摩堂に変更し、青森県弘前市から東京都世田谷明古堂工房に向けて護摩を焚きつつ遥拝による祈祷を行いました。願いは時空を超え、遙拝という形で仁王像に届けられたのです。祈願を終えた奉納物は、後に明古堂へ届けられ、解体修復工事の一環として胎内に納められました。
18. 結縁式 檀信徒へのお披露目
仁王像は、令和5年(二〇二三)4月5日に最勝院へ帰って参りました。しかし、直接仁王門にではなく本堂の外陣へ一ヶ月ほど仮に奉安されました。
その理由は、幾つかあります。弘前大学名誉教授の須藤弘敏先生が明古堂で仁王像の背中を見た時、『何と素晴らしい背中だ!』と感じたのだそうです。仁王像は仁王門に入っている時には、目の前には鳥除けの網が巡らされ紗(しゃ)がかかったようによく見えません。更には、目の前には金剛柵(こんごうさく)があり、仁王像で見えるのは正面の腰から上のみとなります。ですから、須藤先生は仁王像の全身を間近にしかもマジマジと見た時に、新鮮な驚きと共にその背中を見たのかも知れません。そのお話をおうかがいした時、今後は背中を見ることができる機会はまずないだけに、お世話になった方々には是非ともその「素晴らしい!」とされる背中を見て頂きたいと考えました。
その実現のために、仁王様には遷座式の日よりも一ヶ月ほど早めにご帰還頂きました。最初に特にご縁のあった方々に対し甦ったお姿のご披露が計画されました。但し、檀信徒の方々には、ただ単に見て頂くのではなく、深いご縁をお結び頂く「結縁式(けちえんしき)」を勤修しつつ、その儀式の中でご覧頂くことに致しました。
結縁式の日程は同月8日、お釈迦様の誕生日を選びました。この日は、お釈迦様の像に甘茶をかけつつ仁王様にも手を合わせ結縁をして頂きました。この結縁式はコロナにも配慮し、案内をお出しした方のみの限定参拝とし、午前を檀家、午後を信者に分散させるなど配慮の上で、法要儀式と内覧会をミックスしたような形とさせて頂きました。
19. 遷座式 仁王門の主の帰還
5月6日、連休が終わると同時に仁王像は、仁王門の主(ぬし)として戻られましたが、実に足かけ4年、1313日ぶりの帰還となります。そして、同10日に、遷座式(せんざしき)が行われました。遷座式とはご仏像がその場所を移す時に行われる法要儀式のことです。この遷座式をもって最勝院仁王像の解体修復工事及びそのための宗教儀式・法要の全てを終えることとなります。同日、夕方の閉門をもって仁王門には鳥除けの網がはめ込まれ、これからまた長い長い星霜をもって、沢山の参拝者を見守り、見守られながらそこで過ごしてゆくことでしょう。
20. 「優しくも厳しい眼差し」とは
仁王様の全面解体を受け入れるかどうかの判断を迫られたその時、対処しなければ最勝院の住職としては失格なのではないかと自問自答している、挫けそうになっている自分がおりました。しかし、それを勇気づけてくれたのは、檀信徒の方々の存在であり、それとオーバーラップするように、揺れ動く弱い心を射貫(いぬ)くかような仁王様の厳しい眼差しが重なりあいました。そして、その厳しさの中に光る、言葉で言い表すのが難しい程の優しさとは何かと考える時、コロナ災禍によって閉鎖された最勝院境内で、誰一人いない静謐(せいひつ)な中に桜が満開を迎え、暗い世相に対して、花たちが〝負けずに頑張れ〟と明るくエールを送ってくれているように思えたこととも重なり合います。
最勝院の仁王門に戻られた仁王様は、三七〇年前の古(いにしえ)なる「厳しくも優しい眼差し」を甦らせて、私たち参拝者それぞれに様々なことを語りかけてまいります。
私たちの心の中にこそ仁王様のように「厳しくも優しい眼差し」が必要ということもその中の一つです。 人は、時には憤怒(ふんぬ)の相を呈することがあったとしても、それは慈悲なる思い遣りでなければなりません。我が子に・我が孫に・兄弟に・友人に・他人に対してであっても思慮深さをもって「厳しくも優しい眼差し」で人同士は接して行かねばならない、ということを仁王様は私たちに伝えています。そして、それを実践することで心穏やかで倖せな日々を過ごして行く事ができるのです。
最勝院の仁王様は当初、護法(ごほう)・仏法守護(ぶっぽうしゅご)と共に、津軽鎮護(ちんご)の存在の一つとして造立されました。しかし、日々弘前の人々に手を合わされつつ崇拝を受ける中、数百年間の星霜の内にその本来の意味合いが徐々に変化していったと考えます。
最勝院の仁王様は、造立当初の意味合いに加え、弘前民衆の心の支えとして実に身近な存在となってゆきました。弘前という街を見守るという立場のみならず、弘前の人々をも見守り見守られるご尊像として受け入れられて今に在る仁王様、と言っても過言ではないといえるでしょう。
金剛山
最勝院
第38世住職 布施
公彰